ペン水彩画 KIMIO IWAZAKI

ペン水彩画 旅のしおり モノ作りのための機械設計・製図 自己紹介 鉄道模型 ペン絵手紙 リンクEnglish その他(石仏の里)etc. お問い合わせフォーム
一生かけて楽しめる趣味を持てればと思っています。

ペン水彩画

HOME » ペン水彩画 » ペーナ国立宮殿

ペーナ国立宮殿の水彩画

ペーナ国立宮殿の水彩画

ペーナ国立宮殿

ペーナ国立宮殿 (Palácio Nacional da Pena)は、ポルトガル・シントラにある宮殿。19世紀ロマン主義を象徴する建築として有名である。現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。

ペーナ宮殿の屋内装飾は、王家の夏の離宮として整備された。すばらしいしっくい細工、トロンプ・ルイユの施された壁、19世紀以来の多種多様なタイルの外装が、おびただしい数の王家の美術品の一部となっている。

現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用される。

ポルトガル・リスボン基本情報

  • ポルトガル・リスボン基本情報県:リスボン県
  • 面積:84.8km2
  • 標高:123m
  • 人口:564,652人
  • 人口密度:6,368人/km2

ポルトガル・リスボンの歴史

リスボンは古代からフェニキア人(カルタゴ人)などにより港として利用されてきた。当時はフェニキア語でアリス・ウボと呼ばれた。紀元前のギリシア人の集落跡が出土している。大プリニウスは『博物誌』でリスボンの創健者をオデュッセウスであるとしている。
紀元前205年にローマの支配下に入り、オリピソの名で知られる。紀元前48年にはガイウス・ユリウス・カエサルによりローマ都市の資格を与えられ、フェリキタス・ユリアと改名。属州ルシタニアの首都となった。
719年にイスラム教徒であるムーア人に占領される。以後1147年に最初のポルトガル国王アフォンソ1世がイスラム教徒より支配権を奪うまでイスラム教徒に支配された(リスボン攻防戦)。1260年には、アフォンソ3世がコインブラから遷都し、ポルトガル王国の首都となった。
12世紀にはパドヴァのアントニオがリスボンから出た。この修道士がしばしばリスボンのアントニオとも呼ばれるのはこのためである。パドヴァのアントニオはポルトガルの守護聖人のひとりとみなされている。
15世紀はじめには大航海時代の幕開けとともに、世界貿易の中心都市となって35万人の人口を有し、当時の世界最大級の都市となった。しかし1531年にはリスボン地震で被害を受け、また1569年にはペストにより6万人の死者を出した。
カルモ教会1755年、リスボン大地震で約6万人の死亡者を出した(地震の被害者総計は約9万人から10万人といわれる)。市内は津波と火災により多くの家屋も損傷し、リスボン市のみならずポルトガルの国内経済にも影響を与える甚大な被害を受けた。市内はのちにポンバル侯爵の設計で再建された計画都市となった。
1924年から1974年のファシズム政権、いわゆるエスタド・ノヴォのもとで、市街はさらに拡張された。

ペーナ国立宮殿の場所

大きな地図で見る

基本情報の出所
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペーナ宮殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/リスボン

注記:本Webサイトの”ペン水彩画”の無断使用を禁止します。